まずは立っている場所を確かめること

 

 

私達の様な精神疾患をもつ者は、どうしても「他人」からの言動や態度で、どうしても「不安」になったり「迷う」ってしまったりします。

 

それは、どうしても「病気」に対しての劣等感があるからだと思います。

 

でも、「健常者」であれ「うつ病」であれ、『人』である事は変わりません。

 

 

今回は、そんな「不安」や「劣等感」を払拭できるであろう『禅語』を紹介したいと思います。

 

 

 

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『照顧脚下』(しょうこきゃっか)

 

 

 

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暗闇の中を歩こうとしても、地面がどこにあるかわからず不安です。

 

足を下ろした先は「水たまり」かもしれません。

 

地面が途切れて「崖の下」へ落ちていくかもしれません。

 

そんな嫌な「想像」にさいなまれては、一歩も歩き出せません。

 

 

不安で前に進めなくなってしまったら、暗闇でも目をこらして「足元」を確かめること。

 

明かりがあるのならば、それで足元を照らし、自分の立っている場所をよく確かめましょう。

 

 

足元に地面が続いているとわかれば、

 

安心してどの方向にでも歩いていけます。

 

 

 

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どんな人でも、前進することはとても不安です。

何故なら、「今までに経験をしていない未知の世界」がそこにあるからです。

 

これは、「病気」の人でも「健常者」でも、同じ条件です。

 

 

「前に進む勇気」は、「病気」の私達には、「死にたくなるほど」苦しい事です。

そんな時、「明かり」である「良き理解者」や「良きパートナー」が傍にいてくれたら、どんなに心強いでしょう

 

 

どうか、「病気」で苦しみ悩んでいる方は、「明かり」である「良き理解者」や「良きパートナー」に恵まれることを切に願います・・・。

自分を守ってくれる知恵

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『破草鞋』(はそうあい)

 

 

 

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道を素足で歩いたら、小石などで足を傷つけてしまうかもしれません。

履物は、道を歩いていく時、自分を守る上で必要なものです。

 

『破草鞋』は、使い古した「わらじ」のこと。

ぼろぼろになってしまいましたが、これまで生きてきた中で、ずっと自分の身を守ってくれたものです。

また、「わらじ」は知恵のことでもあります。

禅僧は、古くなった「わらじ」を洗って壁の下地に使っていたそうです。

培ってきた知恵や経験は、目に見えない土台となって私達を支えています。

 

 

 

*************************

 

 

 

さて、ここで皆さんの反応を思い浮かべてみます。

 

この説明で「あ~、なるほどね」と感じることができた方。

あなたは、しっかりと『知恵』が何であるか、『知識』が何であるか、

わかっている方とお見受けします。

 

すばらしい!

 

 

 

 

それでは、この説明で「どういった意味なのか、良くわからない」と感じた方。

これから、私と学んでみませんか?

 

まずは、『知識』と『知恵』の違いについて、説明しなければなりません。

 

○『知識』とは、知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容。(デジタル大辞泉より)

英語では、knowledgeと訳しますが、学識や見聞、学問といったことをさします。

もう少し簡単な表現をするなら、「生まれてからこれまでに学問として、経験として学んだこと」と言ったところでしょうか。

 

では次に、

○『知恵』とは、世界全体を意味づける根拠にかかわる統一的な知を言います。

英語では、wisdomと訳し、賢いこと、賢明や分別があるといったことをさします。

これも簡単に表現するなら、「知識の組み合わせによって物事を解決する力」と言ったところでしょうか。

 

 

 

私達人間は、とても弱く、武装していないと「あっ」という間に潰されてしまいます。

この武具は、日々進化しており、その時、その時代に合った装備をしないと、自分を守ることが出来ません。

 

例えば、ちょっと前までは携帯電話やスマホといった「アイテム」はありませんでした。それらがなかった時代、人々はどんな生活をしていたでしょう?

会社や家族への連絡方法は、公衆電話や、時には手紙などを使っていました。

この頃の常識では、その「武装」で十分通用していたわけです。

しかし、現在ではどうでしょう?

携帯電話やスマホといった「アイテム」は必儒なものとなっています。

 

 

 

さて、「わらじ」の話に戻りましょう。

ここで言う「わらじ」とは、その時代時代の骨格・土台となるものです。

現代人たるもの、携帯やスマホ、パソコンを使いこなすなどと言ったことは、

 

当たり前

 

であることは、皆さんも理解できるでしょう。

携帯やスマホ、PCなど、その様な「アイテム」があるという事を知っているのが『知識』と言います。

携帯やスマホ、PCを使いこなし、活用している。使いこなしているのが『知恵』と言います。

 

 

どうです?

少しは理解できましたか?

 

 

『破草鞋』は、今の時代、急速に進歩しています。

少しでも「怠け」て「学ぶ」ことを怠ってしまうと時代に取り残され「古い人」になってしまいます。

 

 

ですから、私達は常に学び、進化して新たな「武装」をし続けなければなりません。

しかし、その根源にあるものはいつの時代でも変わりません。

『破草鞋』を、上書きしていくことが、必要とされているのです。

 

 

 

どうか皆さん。『破草鞋』の大切さを忘れない様に、日々の生活を送ってください。

★相手の立場に自分を当てはめて★ と ☆お互いを認め合えば心穏やかに☆

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今回は 『論語』 と 『禅語』 の2つを同時に紹介します。

 

なぜ 『2つ』 なのかは、

 

今回のテーマが 『客観的に物事をとらえる』 という内容だからです。

 

 

私達は、とかく 『俺(私)は、こんな病気になってしまって誰も理解してくれない』 などと悲観的な考えを持ちます。

しかし、よく考えてみて下さい。本当に 『誰も』 理解してくれていないのでしょうか。

 

 

今回は、その事を理解し、 『まずは己の襟を正す』 ことを促したいと思い、

これから解説する2つ、 『論語』 と 『禅語』 を解説します。

 

 

とても厳しい内容となります。

これを読んで 『心が折れる』 かも知れません。

 

しかし、これから書く内容は、まぎれもない 『事実』 であり、その 『事実』 を認め、

受け入れなければ、私達の病は 『一生治らない』 と思って頂いても結構です。

 

 

今回は、私自身が 『鬼』 となり、皆さんに 『忠告』 しますので、心して読んでください。

 

 

では、さっそく参ります。

 

 

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★『己の欲せざる所は人に施す勿れ』★

(おのれにほっせざるところは ひとにほどこすなかれ)

【己所不欲】

 

 

☆『和敬清寂』☆

(わへいせいじゃく)

 

 

 

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★『己の欲せざる所は人に施す勿れ』★

 

知らず知らずのうちに人のことを傷つけてしまった。または、人に傷つけられてしまった。

 

どなたでも、その様な経験があるでしょう。

 

『相手が喜ぶと思ったのに、逆に怒らせてしまった。』

 

『相手からかけられた言葉に、ひどく傷つき傷心してしまった。』

 

 

何げない自分の行動や、他人の言動や行動・好意に、なぜか不快な思いをしてしまう。

その様な経験は、どなたでもあると思います。

 

その思いがけない反応も、よく考えれば、 『自分(相手)勝手』 や 『自己(他者)中心的』 な自分(相手)への思いやりが原因かもしれません。

 

 

自分(相手)の立場と、相手(自分)の立場は 『いつも』 『必ず』 違います。

 

自分(相手)が喜ぶことでも、相手(自分)が喜ぶとは限りません。

 

 

相手(自分)の立場を良く考えて、相手(自分)の立場に自分(相手)を当てはめて考えてみる。

そうすると、どうすれば相手(自分)が喜ぶかがわかるようになります。

 

 

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☆『和敬清寂』☆

 

野球にはバッター、ピッチャー、キャッチャーなど様々なポジションがあります。

全員がバッターだったら、チームがいくつあっても試合になりません。

 

 

『和』 とは、皆が同じになるのではなく、お互いの気持ちを受け入れること。

そうすることによって、清々しく穏やかな人間関係が成立します。

 

『人』 は、それぞれ 『立場』 や 『個性』 が異なります。

それを敬い認め合ってこそ、集団の中で活かされるものです。

 

 

『私とあなたは違う』

 

 

このことを受け入れ、理解しないと、 『心の葛藤』 となってしまうでしょう。

 

 

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今回の、 『論語』 と 『禅語』 について、上記で記述した内容を読んで、

即座に 『何を言わんとしているのか』 を理解できた方、

 

あなたは、近い将来、必ず 『病』 を克服し元の生活に戻ることができるでしょう。

 

 

 

そうでない方。

申し訳ないのですが、 『失格』 です。

 

今まで、いったいあなたは 『何を学んできたのですか』

 

 

 

 

この言葉は、どなたでもご存知でしょう。

 

『人のふり見て我がふり直す』

 

 

この言葉は、単に 『人』 の行いの良し悪しに関係なく、

『客観的』 になりなさい。

と、説いているのです。

 

 

 

『私はうつ病です』

 

そんなことは、周りの 『人』 は百も承知です。

 

『だから何?』

 

と、思われて終わってしまうのが関の山です。

 

 

 

『カレーライス』 が好きな人に 『ラーメン』 のおいしい店の話をしたところで、

何の興味を示さない。

それは、 『自分』 が 『ラーメン』 が好きだからであって、 『相手』 の気持ちを何ら考えていないから。

 

その逆に、 『相手』 は 『カレーライス』 が好きだから 『ラーメン』 の話など

『どうでもよい』 事なのです。

 

 

 

 

こうして書いている、私自身も 『うつ病』 です。

しかし、私が書く物は、 『客観的に自己分析』 しながら書いています。

 

私の書く内容に 『賛否』 があると思いますが、

皆さんは 『うつ病』 という病気を 『言い訳』 にしていませんか?

 

本当に 『治療し完治させたい』 と、 『心の底』 から願っていますか?

 

 

家庭を持っている方、両親と同居をしている方、独り暮らしや母子家庭。

それぞれ、生活環境は違っていても、

 

『うつ病』

 

という 『病』 を理由に、逃げていませんか?

 

 

 

『うつ病』 は、 『心の風邪』 です。

『心』 を治療するには 『心が強くなる』 しか手立てがないのです。

 

 

 

 

冒頭で申しましたとおり、

 

私は 『鬼』 となり、皆さんに 『忠告』 します。

 

一切の、妥協はしません。

 

 

この内容を読み、 『去る者』 がいるかもしれないと 『覚悟』 しています。

 

 

それでもかまいません。

 

なぜなら、私に関わった 『皆さん全員』 が、

 

『うつ病を克服』

 

して欲しいのです。

 

 

そして、私自身も 『克服』 したいのです。

 

 

どうか皆さん、

 

 

『強い信念を持ち病に立ち向かってください』

 

 

お願いします・・・・

 

 

 

 

今回は、相当 『厳しい言葉』 を書きました。

 

気を悪くされた方には、この場を借りて謝罪いたします。

 

しかし、しっかりと受け止めて下さい。

 

 

私達の病気は、必ず治ります。

だからこそ、 『相手の気持ち』 を理解する努力をし、 『自分の気持ち』 を押し付ける様なことはしないで下さい・・・・

いつでも素晴らしい時を楽しみ、前向きに受け止める

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今回は、ふたつの『禅語』を紹介します。

ひとつは、『人間好事節』

そしてもう一つは、以前紹介した 『日々是好日』です。

 

どちらも、「日々を気持ちよく過ごしたい」 「心を良好な状態に保つ」

 

がテーマの『禅語』です。

 

シルバーウィークも終わり。いつもの日常が帰ってきます。

人によっては 「憂鬱」 と感じる方もいるかと思いますが、

そんな時に、この『禅語』を思い出していただいて、

 

『心をリフレッシュ』

 

して頂ければ幸です。

 

 

 

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『人間好地節』(にんげんこのこうじせつ)

 

『日々是好日』(にちにちこれこうじつ)

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

最近の皆さんは、 「憂鬱」 な日々を送っていませんか?

 

こと私は、昨日一日無駄な時間を過ごしてしまいました。

先日のブログで『必要な無駄』について書きましたが、まさしくその様な時間を過ごした一日でした。

ですから、人の事は言えないのですが、季節がら仕方がないのでしょうか

どうしても「気持ちが好転しない」ことは、どなたでもあると思います。

 

私自身、どうしても理解できない 「憂鬱感」 をどの様に解消すればよいかと

いろいろ考えたりしますが、これといった具体的な理由と解決方法がないのが

実際のところだと思います。

 

そこで今回は、自分自身に言い聞かせる意味でも、このテーマを取り上げました。

 

 

 

「いつでもすばらしい時を楽しむ」

 

そして、

 

「物事を前向きにとらえ、幸せかどうかは、己の『心』が決める」

 

 

この事を、意識しなければ、すべての物事は好転しないと思いました。

 

 

 

☆ まずは、『人間好地節』 について、解説をしてみたいと思いますので

皆さん御自身に当てはめて、思い当たることがあれば改善してみて下さい。

 

 

春は花が咲き、夏は涼しい風が吹き。秋は美しい月が輝き、冬は雪が舞い降りる。

 

日本には美しい四季の移ろいがあります。

一年中すばらしい時期であるにもかかわらず、それに気づかないのは、

私達の『心』が、ほかの雑多なことに惑わされているから。

 

夏は暑い、冬は寒いと嫌なことばかり目を向けていたら、

せっかくの素晴らしい季節も楽しめないまま、あっという間に過ぎ去ってしまいます。

いつでも素晴らしい時なのですから、それを楽しめる様な気持ちの余裕を持ち、

それを楽しめるような気持ちで毎日を過ごしてみてはいかがでしょう・・・

 

 

 

☆ 次に、『日々是好日』です。

 

 

鎌倉時代や室町時代のはじめ、いわゆる争いが始終行われていた時代、

この時代に、『禅』の精神は武士の間で広く支持されるようになったそうです。

 

武士は皆、常に死と向き合っていました。

いつ戦(いくさ)が始まるかもわからない。

もしかしたら明日には、わが身にそれが降りかかってくるかもしれない。

 

そんな状況で、『禅』の精神がぴったりと当てはまった様です。

明日をも知れぬ命だからこそ、

 

「今、このときを一生懸命に生きよう。」

 

「この瞬間を精一杯、楽しもう。」

(これは 『一期一会』 の精神でもありますね。)

 

 

嬉しいことがあった日も、嫌なことがあった日も、

それは二度と繰り返すことのない

 

「大切な一日」

 

であるという意識と意味。

その日を 『好日』 にするのは、

 

「起こる出来事でも、出会う誰かでもない」

 

『自分自身の心』 なのです。

 

 

たとえ同じことが起きても、それを受け止める 『心』 次第で、

まったくイメージは変わってきます。

起きてしまった出来事は変えることが出来ないけれど、それをどうとらえるかは、

全部自分で決めることができる。

 

せっかくなら、今日一日を 『好日』 として締めくくりたいものです。

 

 

「憂鬱」 だと感じた時、

それを『好日』 だと思えるようになれたら、どんなに充実した時間を過ごすことができるでしょう。

 

『自分自身の心』 次第で、それは可能なのです。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

どうか皆さん、「憂鬱」 と感じた時には、この言葉、精神を思い出してください。

さすればきっと、

 

 

「いつでもすばらしい時を楽しむ」

 

「日々を気持ちよく過ごす」

 

「心を良好な状態に保てる」

 

 

ことが出来かもしれませんよ・・・

あなたはあなたのやり方で

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ここ最近になり、ようやく「秋」らしい気候になってきました。

早朝や夕方になると、多少の寒さを感じ袖丈の長い着物が必要と感じているでしょう。

 

外出すると、人それぞれ「長袖や半袖」といった思い~の格好で歩いている姿を見かけると思います。

 

 

さて、今日紹介する 『禅語』 は、そんな季節感を比喩して教えを説く『禅語』です。

昨日と同様、「固定観念」にとらわれず「自分らしさ」が何であるかを

 

『ゆっくりと』

 

考えてみてはいかがでしょうか・・・

 

 

****************************

 

 

 

『鶏寒上樹鴨寒下水』(とりさむくしてきにのぼり かもさむくしてみずにくだる)

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

鶏は寒い時の上にのぼり、鴨は寒いと水にもぐります。

 

 

『鳥』という同じ生き物でありながら、『寒さ』への対処方法が、まったく異なります。

 

 

私達人間も、

 

『目的』

 

が同じであっても、それに対する取り組み方は一人一人違います。

 

 

 

『うつ病』となり、

 

「音楽を聴いて心を落ち着かせる人」もいれば、

「散歩や運動をして心を落ち着かせる人」もいますよね。

 

 

より良い結果を残した『他の人のやり方』 を真似しても、

 

それが自分に合っていなければ 「うまくいきません」 し 「ストレスの原因」 となってしまいます。

 

 

自分なりの方法を探すのは、

 

『大変時間がかかる』

 

作業だと思います。

 

でも、自分らしい方法を見つけて、

それを 『実行』 して、

『行動』 する。

 

 

 

これこそが、私達の病気を治す

 

『近道』

 

であり、また、

 

『自分の魅力』

 

を高める事にもつながります。

 

 

その先にあるものは、

 

『失った自信』

 

を取り戻すことが出来るなんですよ (*^。^*)

 

 

 

みなさん、

 

私がこうして 『禅語』 をブログとして書き続けていますが、

あまり、この言葉に惑わされることなく、

 

 

『自分に合った方法』

 

 

を見つけて下さいね

無理に白黒つけない。善悪で物事を考えない。そして、あるがままを生きる

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唐突ですが、「折り合いをつける」ってどういう事だと皆さんは思いますか?

真っ先に思いつくことは『白黒はっきりとつける』って事ではないでしょうか。

 

 

でも、『白か黒か』にこだわってしまうと、『灰色』の美しさを忘れてしまいます。

 

 

仏教というのは大変寛容なものです。

 

白か黒かで考えない。白もあれば黒もある。

もちろん灰色だってあるし、そのグラデーションも一色ではない。

そんな大らかな心が根本にあります。

 

 

そもそも、日本の仏教というのは、その成り立ちからして大らかです。

 

太古から日本には神道があり、あるとき中国から仏教が入ってきました。

そこで日本人は『神道か仏教か』と争うのではなく、

何とか共存できないものかと考えました。

 

 

『本地垂迹説』(ほんちすいじゃくせつ)

 

という言葉があります。

神道と仏教を共存させるために、神様と仏様の中間みたいなものをつくってしまったというお話です。

 

それがあちこちの神社に祭られている権現で、

その正体は仏様の化身で神様の姿になったというものです。

 

 

なんとも適当と言えば適当ですが、

これこそが日本人の知恵だと思います。

 

互いにうまく折り合いをつけて、争いごとを避けながら共存していく。

 

 

物事には白黒つけられないこともあります。

ならば無理してはっきりさせるのではなく、中庸で良いのではないでしょうか。

 

 

 

だから?

日本の政治は玉虫色なのかもしれませんね・・・。

 

 

 

『白黒つける』

 

ということは、物事を『善悪』で分けることと言い換える事も出来ると思います。

では、物事を『善悪』で分ける必要はあるのでしょうか?

 

 

例えば、「呼吸をするのに好き嫌い」はありませんよね。

 

ひとつの道を究めるということは、特殊な事でもドラマチックなものでもありません。

 

 

毎日同じことを繰り返す。

 

 

地味で地道な事を当たり前に続けていく。

そんな繰り返しを経て、ある時ふと気づくのです。

 

『ああ、これが私が探していた答えだったんだなあ~』

 

てな具合に・・・。

 

 

 

高名な僧侶だって、自分の宝物に気づくために修行を重ねています。

 

オリンピック選手だって、ひたすら泳いだり、走ったり、練習を重ねています。

 

 

そうして、あるとき道を究める。

そういうものです。

 

 

着地点ばかりに気を取られていると、

道程がおろそかになってしまいます。

 

結果を出すことにとらわれていては、

 

 

『いま』

 

『この瞬間』

 

に、全力を出すことが出来ない。

 

 

『善を思わず、悪をも思わず』

 

今、やっていることを善悪で判断しないという意味です。

 

 

例えにだした、「呼吸をするのに好き嫌い」、『好き』とか『嫌い』

で分けないのと同じです。

 

呼吸をするのと同じように、

 

 

『当たり前のことを当たり前にやっていく。』

 

物事に善悪をつけようとするから、

『悩み』や『ストレス』が生まれるのではないでしょうか・・・

 

 

では、私達は、どうやって物事をとらえ、考えて生きてゆけばよいのでしょうか。

 

 

結論からいってしまうと、

 

『あるがまま』を見て、『好き嫌い』で悩まない。

 

 

これも例えるなら、

仕事をしている方であれば経験があると思いますが、

「部下のせいで」とか「あの上司さえいなければ」とか、

とかく人間関係は悩ましいものです。

 

最初から付き合わなければいいのだけれど、仕事などではそうもいきません。

 

 

『人間関係の悩み』

 

これは、永遠のテーマと言えるでしょう。

 

 

「禅の庭の父」と称される夢窓国師(むそうこくし)は、次のように述べています。

 

『便(すなわ)ち見る物、否を終へずして、悪事転じて善事となり、法定相なし。逆縁却って順縁と為ることを。此れ其の禍福同源(かふくどうげん)、冤親一体(おんしんいったい)の所以(ゆえん)なるものなり。』

 

 

ん~、何を説いているのか私にも理解できません (^_^.)

 

この言葉は、これまでは憎しみをもってきた敵を手厚く供養し、自らの行いを懺悔(ざんげ)することにより、逆縁が順縁に転じるという意味だそうです。

 

 

つまり?

災いも福も、その源は同じところから来ているもの。

憎しみも親しみも、実は全く同一のものであるということらしいです。

 

 

では、その正体は何か・・・。

 

ずばり、

 

 

『あなたの心』

 

です。

好きか嫌いかは、全部自分の心が決めている。

 

 

『悟無好悪』(さとればこうおなし)

 

あるがままを見られるようになったら、好きも嫌いもなくなるようです・・・

 

 

いま、私を含め、思い悩み苦しんでいる皆さんにお伝えしたいのは、

 

 

『自分にないものを求めない』

 

ということです。

 

 

『結果』を出すこと(私達の場合、病気を治す)に焦りは禁物であると言う事。

 

 

『夏炉冬扇』(かろとうせん)

 

夏の炉と冬の扇子、その時には必要のないものです。

今すぐには必要がなく役に立たなくても、必ず役に立つ時が来る。

じっと時機を待つことの大切さを意味している言葉です。

 

 

一口に仕事といっても、華やかで周囲から羨ましがられるようなものもあれば、

地味で目立たない仕事もあります。

同じやるなら、目立つ仕事をやりたいと思うのが人情でしょう。

 

でも、華やかな仕事をしている人も、はじめからそうだったわけではありません。

地味な仕事をコツコツと積み重ねた結果として、『いま』があるのです。

 

 

一見、役に立たないことが、巡りめぐってひとつの結果に結びつく。

いま頑張っていることはひとつも無駄にはならない。

 

 

今の自分に自信がなくても、

 

『自分の心にあるもの』

 

 

だから皆さん、

 

『のんびり』

 

『じっくり』

 

『焦らず』

 

自分と向き合って、やれる事を『今』やっていきましょうよ (*^_^*)

 

焦ったって、なんも良い事なんかありはしないんですから・・・。

他人にイラッとした時に思い出したい禅語

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職場や学校、家庭において一緒に何かをするって、むずかしい……。

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「何であの人は手伝わないの?」

「何であんなやり方してんの?もっと早くやってほしい!」

「なんであの人は、理解してくれないの?」

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どうしても他人の行動にイライラしてしまうこと、ありますよね。

でも、その感情を、そのまま相手にぶつけてしまって、いいのでしょうか?

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職場に1人や2人はいる、苦手な上司や後輩。毎日一緒にいると、嫌なところばかり目に付いてしまいますよね。相手が変わることはほとんどありませんから、ストレスは溜まる一方です。

職場の人間関係ストレスは、自分でストレスをコントロールする必要があります。その1つとして、“禅語”を学び、視点を変えてみるのもお勧めです。

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禅語とは、“禅”の教えをつたえる言葉で、古人の知恵が凝縮された結晶です。今回は哲学を専門とする筆者が、“苦手な相手をちょっと好きになれる禅語” “イラッとして誰かを傷つけてしまう前に、思い出してほしい禅語”をいくつか紹介します。

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  • 見性成仏

仏教では“誰もが仏性”(仏さまの心、思いやりや人のためを考える優しさ)を持っていると考えます。“見性成仏”とは、本来持っている仏性を見極めることをいいます。苦手な相手にも“仏性”はあり、それを見極めなくてはならないのです。

そうはいっても、「自分の利益ばかり考える上司に仏性があるわけがない。」「悪口や愚痴ばかりの子の良い部分なんて見つけられない。」と思ってしまいますが、問題なのは“相手に仏性が感じられない”ことではなく、“自分に仏性を見極める心がない”ことなのです。

偏見や先入観で相手を見てしまっているので、なかなか仏性が見えてこないのです。自分の心の声をオフにして、ありのままの相手を見てみましょう。

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  • 柳緑花紅

苦手な人の中には、「何であの子ばかり評価されているの。」「美人で仕事もデキるなんてズルイ。」なんて、羨んでしまう相手もいるのでは。

柳緑花紅は、“柳は緑で、花は紅い”という意味で、これを詠んだ中国の詩人・蘇軾は、「ありのままの姿が真実だ。」と言っています。

“平等”という言葉がありますが、これは“皆同じ”という意味ではありません。“それぞれ自分の持っている能力を活かすこと”が平等だということです。

あなたが羨む相手は、自分が本来持っているものを見極め、思う存分いかしているのです。では、あなたはどうですか? 人を羨んでばかりいずに、自分と向き合いましょう。

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  • 無不是薬者

無不是薬者とは“世の中に薬にならないものはない”という意味です。私たちはいつでも人や出来事を、“善悪”で分けたがりますが、“何でも自分の薬になる”と思ってみましょう。

苦手な人、価値観の違う人とうまく付き合うには、大変骨が折れます。ただその分、自分のコミュニケーション能力は上がりますし、人間性の幅も心も広くなります。どんなに毒に見えるものでも、必ず学ぶところはあると思って接してみましょう。

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  • 他不是吾

他不是吾(他は これ吾に あらず)は、 他の人は私ではない。誰かが自分の代わりに仕事や作業をやってくれたとしても、それは私の修業にはならない。という意味の言葉です。

お腹がすいている時、誰かが代わりにご飯を食べてくれても、自分はお腹いっぱいになれません。

日々の仕事も同じように、他人に手伝ってもらっていては、自分のスキルアップにはなりませんよね。

自分で成し遂げた仕事は、必ず自分を高めてくれます。

忙しくてイラッとした時は、心をしずめて、その仕事が「人生の修業になる。」「自分のためになる。」という風に考えてみてはいかがでしょう?

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  • 鶏寒上樹鴨寒下水

鶏寒上樹鴨寒下水(鶏 寒くして 樹に上ぼり 鴨 寒くして 水に下る)とは、気温が低くなると、鶏(にわとり)は木の枝にのぼって寒さをしのぎます。けれど、鴨(かも)は防寒のために水に入るということを言っています。

おなじ鳥の仲間が、おなじ状況で、おなじ結果を求めていても、その対処法はそれぞれに違っていて当然。という意味の禅語です。

人は、どうしても自分のやり方・考え方が正しいと思ってしまいがち。また、自分と同じ考え方の人がたくさん集まれば、その思いはさらに強くなりますね。

.

でも本当は、どの方法が正しいということはなく、いくつものやり方・考え方があっていいはず。

自分たちと違う行動をしているからといって、誰かを責めるのも、誰かに責められるものおかしい。

それを理解しながら、お互いが納得のいく方法を探していけばいいんです。

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  • 遍界不曾蔵

遍界不曾蔵(へんかい かって かくさず)は、世の中が真実を隠しているわけではなく、すべてはあなたの周りに現れている。という禅語です。

人の心がわからなくて不安になること、ありますよね。でも、真実は誰かが隠しているのではなく、本当はもう、目の前に現れているのかも。

私たちの目や心は、思うほどあてにならないもの。自分中心の考えにとらわれて、偏った見方をしてしまいがちなのです。

自分の「思い込み」を取り除き、「ありのまま」を見ると、単純で明らかな真実が見えてくるはず。

慌てず、周囲に踊らされず、現実をじっと見つめられる人間になりたいですね。

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  • 我逢人

我逢人(がほうじん)」は、出会いの素晴らしさを表す言葉です。

自分だけで考え、行動していては見つからないものがある。誰かと出会うことによって、新しい何かを生み出し、人は成長していく。

人との出会いこそがすべてのはじまりです。人と会うこと。人と会う場所。そして、人と会う時の自分の姿を大切にしましょう。

人生は一度きり。どんな出会いも経験も自分の糧になるものです。他人にイラッとしても、その相手に抗議するまえに、一呼吸。禅語を思い出してみてくださいね。

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引用:http://wooris.jp/archives/81223

 

引用:http://sp.lalu.jp/article/show/aid/841.html

見えないところで善いことをする

見えないところで善いことをする

 

 

皆さんは、「陰徳を積む」という言葉をご存知でしょうか。

 

人知れず良い行いをしていれば、必ず良い報いがある。(中国の前漢時代の言葉です)

もう少し、簡単な言葉で説明すると、次の様になります。

 

普通、人が見ているところでゴミをポイ捨てしたりする人はいませんが、誰も見ていないときにはポイ捨てしてしまう人がいます。

人が見ているから良いことをするのではなく、誰も見ていなくとも善いおこないをするというのが「陰徳を積む」ということなのです。

 

 

では、「陰徳を積む」と運が良くなるのはなぜでしょう。

 

それには、以下の理由が考えられます。

 

①陰徳と陽得

■「はぁ~。最悪だ。私は運が悪いのか?」

自分の辛い人生や不運を嘆きながら・・人前では良い人を演じながらも「誰も見ていないから」と平気でゴミを捨て、「別に、直接暴言を吐いているわけではないし・・」と、ストレスが溜まりイライラしている心境を、(自分とは直接繋がりがないから)と、店の店員などに「イライラ顔や悪い態度」をぶつけ、前をノロノロと走る遅い車を運転している年配者を睨みつけながら追い越し、嫌いな人に対しては心の中で、「この人に、不幸なことがあれば良いのに!!」と思い、嫌いな人に悪いことが起きれば、心の中で、「ざまあみろ!天誅だ。」なんて思ったりしていました。

 

コンビニで買い物した際、50円のお釣りをレジ店員が間違え、100円差し出してきたときには、「店員のお陰で得した。ラッキー!」と思い、お釣りの間違いに気がついていたのに100円を受け取り、急いでコンビニを後にしていました。

 

しかし、どれも直接的ではないし、多くは「誰も見ていない・誰も知らない」ことであるし、少なくとも、私と直接関わり/繋がりある職場の同僚や友人達は「誰も見ていない・誰も知らない」ことであったため、上記のような一般的に(悪い行い)をしてはいましたが、そのことを「悪い」とも思っていませんでした。

心底、悪いのは「世の中」であり、私は自分のことを「被害者」だと思っていました。

 

 

②目には見えない法則 ~陰徳を積む人の運命~

■つい最近、本屋で本を買いました。

レジは混雑しており、店員さんは慌てていたのか・・前の客が出していた500円玉をレジにしまうのを忘れ、そのまま(お金を置く器、お皿)のところに、500円玉が置かれたままになっていました。

 

このまま、私が(お金を置く器、お皿)のところに1000円札を置けば、1500円の本を買えそうでした。

「この500円玉は、今、私が出しましたよ?」と主張すれば良いのですから。

 

(お金を置く器、お皿)のところに、前の客が支払った500円玉が置かれたままになっていたことは、「誰も見ていない/誰も知らない」ことですし・・その500円玉を私が利用することは、「誰も見ていない・誰も知らない」ことですし・・

「誰も見ていない・誰も知らない」ことを良いことに、前の客が支払った500円玉を利用していたことでしょう。

 

しかし、店員さんに言いました。

私→「あの、この500円玉・・・」

店員→「あっ!これ・・ありがとうございます!!」

 

店員さんは、あっ!という表情の後、自分のミスを恥じる気持ちからか?少し照れも混じった嬉しそうな笑顔を見せていました。

 

 

 

~なぜ、「誰も見ていない・誰も知らない」ところで善行を積むのか?~

 

→【陰徳(いんとく)】という言葉があります。

陰徳とは、人に知られないよう、ひそかに行う善行のことであり、隠れた、良い行いのことです。「陰徳を積む」などの使われ方をします。

 

仙人・仙女修行の中には、「陰徳を積む修行」も存在するようです。

しかし、「陰徳を積む修行」のために、私は店員さんに500円玉のことを言ったのではないのでした。

 

{陰徳を積む修行}というのは、‘心のあり方’次第では、

「陰徳を積むことで、自分にメリットがあるからな!ふふふ・・」

「陰徳を積み、自分が幸せになりたいから・・」

「陰徳を積むことによって、自分が・・」

 

と自分は自分は自分は自分はと、自分のためだけに、自分だけのメリットを考えて行う色合いの強い修行ともなりかねず、あまり興味のない修行でもあります。

 

及び、(陰徳を積む修行)というのは、陰徳を積むことによって見返りを求める気持ち・・「陰徳を積めば、その分、良い事がある!」という気持ちが、潜んでしまう場合もありそうです。

それは見返りを諦めなさいの教えに反します。

 

たとえ陰徳を積もうが、見返りを求める心境から陰徳を積むならば、「私は陰徳を積んでいるのに、その割りには見返りが少ない!!」と不満や愚痴を言うことになるかもしれません。

行為を行うことも大切ですが、「その行為を行う動機は?」という、動機の部分も、大切なようです。

 

己の自己メリットのためだけに、見返りを求める心境から行う陰徳と・・(自分良し!他人良し!社会良し!)と、周りのことも含め考え、そして見返りを諦め、与えっぱなしで行う愛や善行とでは・・両者とも同じ善行ではあるのですが、経験上、どうも結果、、、行為に付随して感じることになる「感情」が、異なるようにも思うのです。

 

因果応報の法則など目には見えない法則は、行為者の、行為を行うその時の‘心のあり方’にも影響するのでしょうか。

それともカルマの法則/意味のとおり、‘我意識’とも、関係があるのかもしれません。

 

 

さて、ではどうして、陰徳を積むと運や運勢が良くなるのでしょうか?

それは、与えの意味・愛の法則や因果応報の法則など目には見えない法則は、誰が見ていようが見ていまいが、誰が知っていようが、知っていまいが、ただただ純粋に、行われた行為の真実に対して作用するからでしょう。

 

端的に言えば、事実ではなく、真実に対して、与えの意味・愛の法則や因果応報の法則など目には見えない法則は働くようなのです。

 

4次元世界の現実にあるとおり、事実と真実は異なるようです。

 

目に見えることだけ・・物理的に理解可能なことだけを考慮して生きていたため、「誰も見ていないし、ポイ捨てすればいいよ。関係ないよ。」「誰も知らないところで善行を積んでも、メリットがないじゃないか。」と、「誰も見ていない・誰も知らない」ならば平気で悪い行いをし、誰かが見ている前では、偉そうに良い人を演じ、善行を積んでいました。

そんな運や運勢は、良くありません。

 

一方・・

仙人・仙女修行以降、誰が見ていようが見ていまいが、誰が知っていようが、知っていまいが、己の信念に基づき、「良かれ!」と思う行いを、以前よりは・・ですが、するようになっていきました。

 

そのことで、逆に批判されることもありました。

世の中は、何をしても、何もしていなくても、誰かから、何かしらの批判を受けるようです。※その理由→わがまま自分勝手

 

 

 

引き寄せの法則をいろいろ試した、やるだけやった。信じられないくらい努力した。しかし何故か人生がうまくいかない人いませんか?

「なぜこんなに頑張っているのにうまくいかないんだ!」「なぜ私ばかりこんな不運なんだ!」っていう人。

もしかしたら、引き寄せの法則の前にこれを試されたほうがいいかもしれません。

 

世の中には宇宙銀行という不思議な銀行が存在しています。なんだよそれって言われそうですが、人の幸運を貯金する銀行です。この幸運を”徳”といいます。ここの貯金が多くある人は物事が非常にうまくいき、貯蓄がない人はなかなか物事がうまく行きません。さらには、徳に借金がある人、マイナスの人は不運に見舞われてしまいます。

 

 

カルマの法則とは

 

この世の中には因果応報(カルマ)の法則が存在しています。もしあなたが、何かに困っているとしましょう。それ実は、あなたが他人を困らせたことが、同じようにおこってしまっているんです。今生とは限りません。なぜかわからないけど経済援助してくれる人、それはもしかしたら前世であなたが困った人を助けた見返りかもしれません。なぜかわからないけどお金に困ってしまう人、前世であなたが他人をお金で苦しめたのかもしれません。それが宇宙銀行に負債としてたまっているんです。カルマとは無意識にあるこういったエネルギーの記憶です。

 

 

負債をなくして貯金を増やせば…

 

もしあなたが、負債をなくして徳という貯金がプラスになってきたとします。そうなるとどうなるのでしょうか。余った徳があなたの人生にプラスの出来事として現れてくるようになります。宝くじがあたったり、理想の恋人を発見したり、事業に成功したり、ラッキーな事が起こり始め、人生が急激に上向き始めます。

成功者が収入の10%を寄付しなさいというのは、これが理由なんです。寄付をしてお金を出すと、宇宙銀行に徳が貯まります。そうすると寄付した以上の金額のお金を手に入れるようになります。(負債がなければですが)

 

 

一番の徳の積み方

 

どうやれば徳を積めるんでしょうか? それが陰徳という方法です。徳には2種類あるんです。

 

陽徳…人に感謝される善行。

陰徳…人に知られない、人に感謝されない善行。

この中で一番貯金ができるのが、陰徳の方です。なぜなのでしょうか? 陽徳は例えば、どうぞと言って電車で席を譲ってあげたり、財布が落ちたら落ちましたよって教えてあげたり、人にありがとうと言われる行為です。

これは少しだけ貯まります。なぜか。ありがとうと言われることによって、相手からエネルギーが返ってくるんです。それで徳(エネルギー)を使っちゃうんです。それでも貯まりますよ。陰徳は、誰にも知られず、ほめられずにする善行です。例えば、席を譲るにしても、黙って相手の負担がなく席を立ったり、ゴミが落ちていたら誰も見ていなくても拾ったり、入ったトイレが汚れていたら綺麗にしたり。感謝されたりほめられたりしない分、エネルギーが丸々返ってきて、徳を貯蓄できます。

陰徳陽報とは中国のことわざです。陰徳を積めば、陽報(良い知らせ)あり。あなたが人生うまく行かないのは、徳が少ないかもしれません。徳を積めば、あなたのステージがあがります。人生がうまく回りはじめるでしょう。

 

 

実行はかなりむずかしい

 

何だ簡単だと思われるかもしれませんが、陰徳を積むのはすごくハイレベルで難しいです。だって、これやれば運が良くなると思ってやっていると、自我が入ってしまい、運が良くならないじゃねえかといって、不満をもってしまいます。負債が貯まる行為なら、本末転倒です。心から他者のために尽くさないといけません。それが難しいんです。本当に無我になった時に、この陰徳はびっくりするくらい溜まっていきます。

 

 

 

~まとめ 陰徳を積む人の運命~

  • 法則は、誰が見ていようが、誰が見ていまいが、真実に対して作用します。

そのため、法則に則った生き方をしていくのであれば、誰が見ていようが、見ていまいが、常に繁栄的な原則(正直・誠実・感謝・奉仕・謙虚・良心・他者の幸せを願う心)に沿って生きていくのも、悪くはないのかもしれません。→破滅原理と繁栄原則(2つの原理原則)

 

 

  • 他人が見ていなくても、実は、常に自分自身は、自分の行動を見ています。

そのため、「誰も見ていないから」ということで、破滅原則(今さえ良ければ良いんだ・自分さえ良ければ良いんだ/金さえ手に入れば良いんだ)的な行動をとっていると、セルフイメージが低下したり、心の平安/平穏を失っていったり、負の世界観をもつことになっていったり・・となり、長期的には、自分自身が苦しむことになるのかもしれません。

※世界観とは?→行動を変える方法(「見え方」「思い込み」「あり方/行動」の関係性)

 

 

③陰徳を積むことは、誰も見ていないし、知らないことであるため、報われない善行を積むことに感じられます。

しかし、エネルギー問題の解決策(人間や現実の正体)にもあるとおり本来は、全てが同じ1つであり・・自分の行動は、いつも全世界・全宇宙が見ているものなのかもしれません。

そうであれば、「誰も見ていないから」ということで行う悪行は、それ相応の結果を招き、と同時に、誰が見ていなくても善行を積めば、それ相応の結果を得ることになるのかもしれないでしょう。

 

 

この世界の、真実の全体像が見えてくると、【要領の良い行動】に対する認識の仕方/考え方が、変わってきたりもする場合があるのかもしれませんね。

 

 

 

引用:http://tensei.nanaki.biz/ukin.html

引用:http://miracleexist.info/goodconduct-331.html

自分自身が足元を照らす光となる

これまでのブログを読んで頂いた方なら、ご理解していただけるかと思いますが、

 

★『私は、私でしかない』

 

★「自己否定」からは何も生まれない

 

と、このような言葉を書きました。

おそらく、

「言っていることは正論かも知れないが、そうそう容易く出来ることではない」

 

と、感じている方もいらっしゃると思います。

そこで、今回はこの内容を解決に導く「ヒント」となるかもしれない『禅語』を紹介したいと思います。

 

 

 

人は誰でも、一人で生きていかなくてはなりません。

いま、家族や友人、恋人がいたとしても、やがては一人になります。

周りの人に頼りきっていたら、一人になった時に心細くて生きていられなくなるかもしれません。

 

長い人生の道のりは、明るい時も暗い時もあるでしょう。

暗く足元が見えにくい時は「自分が灯明(ひかり)」となって道を照らし歩いていくしかありません。

 

自分自身が光り輝く存在であることに気づいたら、暗闇でも落ち着いて歩いていけます。

 

 

これは、

『自灯明(じとうみょう)』

という『禅語』で、「自らを灯明(ひかり)とせよ。」と説いているものです。

 

 

 

では、この『自灯明』で、なにを感じ学べば良いのでしょう。

 

私達、人は違った「価値観」「感性」「感情」「性格」「知識」をもっています。

ひとつの物事に対し、それぞれの人が違ったイメージをもつことは当然のことです。

自らが率先して、人と比べ「優劣」を決めることに、どんな意味があるのでしょうか?

その人には、その人の「生き方」があるのです。

その生き方を、誰も「肯定」も「否定」も出来ないはずです。

 

 

『私は、私でしかない』のですから、まずは他人を「肯定」も「否定」もせず「あるがまま」を受け止める必要があると思います。

そして、『わたし』は何者なのかを客観的に見る力を養う必要があるでしょう。

 

「客観的に見る」ということは、「自己否定する」ということではありません。

自分には「なにが出来て、なにが出来ない」のかを冷静に、まるで「他人事のように」分析してみるのです。

 

 

そこからスタートです。

まずは「出来ること」から始めましょう。

そして「出来ないこと」の原因を究明し、「対策」を考えます。

対策が決まったら、その対策を「細分化」し、その中で「出来ること」を探します。

細分化して「出来ること」を見つけたら、その事を達成させてください。

その様にすることで、自然に「次のステップ」が見えてくるはずです。

この一連の流れを続けていけば、いつの間にか「出来ないこと」だった事が、出来るようになっているはずです。

言葉での説明は、少々わかりづらいと思うので図解にしてみました。

 

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気持ちを察する大切さ

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SNSという世界の中で、関係を築いたみなさんとは「会ったこともなければ、直接会話を交わしたこともない」そんな関係にもかかわらず、なぜか心を許してたり、本音で話をしてたりしている方がいます。

決して悪いことではないのですが、所詮SNSというバーチャルな世界です。十分に気をつけなければいけないと思います。

 

 

今日は、そんなSNSで使用する「言葉」に対し、『禅語』をもちいて解説したいと思います。

 

 

 

【相手の言葉に「心」を寄せるということ】

 

人の気持ちというものは、言葉ではいいつくせないことがあるものです。あるいは的確な言葉を探せない人もいるでしょう。

 

 

だからこそ、人間には相手の

 

「気持ちを察する」

 

という能力が与えられているのではないでしょうか。

 

 

 

【拈華微笑】

(ねんげみしょう)

 

という『禅語』があります。

お釈迦様がたくさんの弟子たちを前に、法座を行いました。でも、お釈迦様は言葉を一言も発せず、ただ一輪の花を拈(ひね)って微笑むだけでした。

呆然とする弟子たちのなかで、ただひとり摩訶迦葉(まかかしょう)尊者だけが「にっこり」と笑ったそうです。

彼は、お釈迦様が何も語らずとも、その教えを理解することができたのです。そして彼は跡継ぎに指名されました。

 

 

 

もちろん、言葉を尽くして気持ちを伝えようとすることは大事なことです。

そして、相手の言葉を真剣に受けとめなければいけません。

 

でも、言葉だけにとらわれていては、一番重要なことを見失ってしまうこともあります。

 

相手の言葉を耳で聞くのではなく、相手の言葉に心を寄せて「気持ちを察する」ことが大切なのです。

 

 

SNSでは、なかなか「気持ちを察する」ということが困難でしょう。だからこそ、普段から「言葉」を選び、慎重に投稿やコメントなどをする必要があるのだと思います。